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2008年 15、16号
カレーライス


手伝いをさせよう

 センダンの木の下に縁台を作った。ベニヤ板三枚で作るこの縁台は夏休みの間、食事の場所になったり、プールに入るための着替えの場所になったり、トランプや宿題をしたり、ゴロンと横になることのできる多目的な拠点になる。束石を置き、水準器で水平を出して根太を固定し、ベニヤ板を打ちつける。そんな作業を、今年も五、六年生の男の連中に教えながらやった。水準器、電工ドラム、電動工具、カナヅチなど、巧みに使える子はなかなかいない。ただし、今年はひとりいた。五年生の加藤君である。インパクトドライバーを上手に使う。簡単そうに見えるインパクトドライバーだが、ビスとの角度や力の入れ加減など、意外にむずかしい。ボクが、上手だなあ、と言うと、「ウン、家でよくやっとるもん」と答えた。そう、それそれ。家でやる機会さえあれば、大工道具でも、包丁でも、針でも、何でも上達する。今はその機会がほとんどないことが問題だ。たかが電工ドラムで延長コードを延ばしたり巻き取ったりすることにすら、やってみなければ分からないコツがある。昔なら、楽しくないものとして子供たちに嫌われたこの種の手伝いも、今の子は珍しいこととして返ってやりたがる。こんなことをやらせたら嫌がるだろうと決めつけないほうがいいかもしれない。家庭の中に子供にもできる雑用が少なくなった時代だが、何とか見つけて、手伝いを復活させることはとても大事なことだと思う。
 この日は、プールの掃除もした。女の子たちが手伝ってくれた。もっとも、こちらの方は、やるなと言ってもやりたがるお手伝いではあった。


たかがクワガタ捕りだけれど

 夏休みに入って何度かクワガタ捕りに出かけた。たくさん捕れることもあれば不猟のときもある。三口池の奥へ行ったときには、一本のクリの木から十数匹ものミヤマクワガタが捕れたこともある。幹を一蹴りしたらバサバサ、バラバラバラと乾いた音がして、駆け寄ると黒い物体がうごめいていた。一蹴りでこれだけの獲物があったことは三十年間蹴っているが初めてのことだ。
 さて、ポランの子は、こんな風にして森に入って自分の手でクワガタやカブトを捕っているが、世間ではお金を出して買うことが普通になっているようだ。外国産のものを買うことだって珍しいことではないらしい。ある日、コーカサス○○とかいう名のカブトムシを持ってきて見せてくれた子がいた。ボクにとっては初めて目にする外国の虫だった。何となくペキペキとしたプラモデルのように見えた。それを覗き込みながら他の子たちも、「オレだってコーカサス△△とか持っとるもん」とか「オレの友達がスマトラ○○を持っとるにイ」とか、口々に言う。昨今の世間一般のクワガタ事情に疎いのはボクだけらしい。
 お金で買ったクワガタと自分で捕ったクワガタ、姿かたちは同じでも、その価値と意味は大きく異なる。自分で捕りに行けば、どんな環境に生息しているのか、どんな木のどんな場所に潜んでいるのか、どんなものを食べ、どんなところで眠っているのか、どんな天気のときは捕れて、どんなときはだめか、など、身をもって体験できる。ヤブカに刺され、くもの巣につかまり、イバラや小枝にすねや腕をひっかかれたり・・・、不快なことは山ほどもある。スズメバチを追い払うにはどうしたらいいのか、森の中で帰り道を間違えないようにするには、手の届かないような高みにいる獲物を捕まえるには、狭い隙間に逃げ込んだ獲物を追い出すにはどうするのか・・・、工夫と知恵を凝らさなければならないことはたくさんある。虫の隠れ場となる木の皮の割れ目を壊すな、根元を掘ったら土を埋め戻しておけ・・・、環境を護るための初歩体験をいろいろとする。森の中を小一時間歩き回っても大した獲物がないこともあるが、誰も何も不服を言わず、感心するほどあっさりとあきらめる。つまり、クワガタを自分で捕るということは、肉体的なつらさ、トラブルに対処する知恵、環境問題を考えるきっかけ、自然は思い通りにならないものだというある種の諦観と忍耐の獲得、など、大事な体験をたくさん積むことにつながるのだ。要するに、自然というものを統合的に(断片的でなく)丸ごと知ることができるのだ。
 「ロクさ〜ん、ノッコーがとれた〜」と、ヤブ蚊に刺された跡をポリポリと掻きながら山から戻ってくるポランの子供たちの顔を見ながらボクは思う。おまえらのクワガタ体験には、他の人には見えないけれどとても大きな価値がある。たかが虫捕りだけど、とても貴重な体験なんだぞ、と。


夏休みが始まった

 夏休みの初日は、学校のプールがお休み。そこで朝からポランのプールをオープンする。今年初めてのプールだ。まっさらの濁りのない水に飛び込んだ子供たちは笑顔、笑顔、笑顔。水しぶきと歓声を上げる子供たちを見ながら、夏休みが始まったことをあらためて実感した。そして、こんなプールがここにあること、その恵まれた状況に感謝した。プール建設までに深く浅く関わっていただいた人々の顔を思い浮かべながら感謝した。


海、波、笑顔

 高く大きな空、はるかかなたのかすみの中へ消えるまで真っ直ぐに続く砂浜、ゆるやかに弧を描く水平線。そして絶え間なく打ち寄せる波。一つとして同じ波はない。仲間の上げる歓声がこの大きな空間に吸い込まれていく。
 この海で見る子供たちの笑顔は最高だといつも思う。太陽がどの子にも公平に降り注ぐように、波もまたどの子にも向かって来る。砂もみんなの足元にある。広い空もどの子の上にも広がっている。独り占めしようとしなくても誰もが独り占めできる海と空と砂。そんな大きくて深い自然の懐に抱かれて子供たちは混じりっけのない笑顔をはじけさせる。もう一つ、最高の笑顔になれる条件がある。それは仲間の存在。二人や三人で遊んでもこうはいかないだろう。大勢の仲間の笑顔が呼応しあって笑顔が増幅される。そんな気がしてならない。ディズニーランドやユニバーサルスタジオがどれだけ楽しかろうとも、人為的な楽しさはこの海と多くの仲間にはかなわないだろう。
 「いいか、おまえたち。今からオレは鬼になる。オレの言うことがきけないやつは海から出てもらう。分かったな!」。海に入る前、子供たちがいぶかしがるほどの形相と大声で、ボクは海での注意を与える。それもこれも、来年も再来年も、みんなでこの海へ来たい。そのためには絶対に悲しいことがあってはならないと考えるからだ。遊泳禁止のこの海へ子供たちを引率するにはそれなりの覚悟と細心の注意が要る。現に、この夏、神戸の都賀川という親水公園ではゲリラ的な集中豪雨で、近所の学童保育所の子と指導員が犠牲になった。水と遊ぶための公園で起こった予測を超えるできごとであった。水は突然に牙をむく。それが水の恐ろしさでもある。用心し過ぎることはない。
 午後になって、黒い怪しげな雲が広がってきた。遠くの海の上に光るものが見えた。急いで子供たちを水から上げ、少しでも安全な崖に近いところに移動させた。雨はポツポツと降ったがひどくなることはなかった。水平線に近いあたりに何本も雷光が走るのをみんなで見つめていた。雷雲の通り道が遠くて本当によかった。(この時、浜松では突風が吹き荒れ、豊川付近では雷と雨がひどかったと後で知った。あらためて自分たちの幸運に感謝した。)
 迎えのバスに全員が乗り込み、動き出す。やれやれ、今年も何事もなく帰ることができる。安堵感がこみ上げてくる。このプログラムさえ終われば、もう後は何でも来い!指導員にとって超過酷な夏休みは終わったも同然だ。休みが始まってほんの数日だというのに本当にそんな気持ちになる。緊張と引き換えに、子供たちのとびきりの笑顔を見ることができる。しんどいけどこのプログラムは止められない。
 バスが走り出すとスヤスヤと眠る子がいる。砂粒を顔に付けて満足げに眠っている子の姿は、ボクらにとっては安らぎを覚えるものだが、同級生の子たちにとっては小さな驚きのようである。
「ネエネエ、ありさちゃん、ねとるにイ」。小声でそんな報告をしてくれる子が必ずある。毎年のことであり、昔からのことでもある。思えば、学校の友達が目の前で眠りこけることなど普段はないのだ。保育園や幼稚園ならお昼寝の時間があったろうが、小学校では、授業中に居眠りすることはないだろうし、そんなことがあったらそれは先生に報告すべき重大事だろう。小学生の平日の生活の中ではありえないことが、このバスの中で起こる。それはやはり報告すべき珍しいことにちがいない。


イシガメの産卵

 珍しいものを見せてもらった。イシガメの産卵である。ウミガメが涙を流しながらタマゴを産み落とす姿はテレビで何度か見たことがあるが、こんな身近な場所で昼間に見ることができようとは思いもかけないことだった。
 海から帰ったその日、ポランの小さな池の横の草地にカメが穴を掘っていると子供が伝えてきた。行ってみると、イシガメが後ろ足で穴を掘っている。どうやら産卵のためらしい。少しずつ少しずつ、足の甲(らしき部分)に土を乗せて引き上げる。やがて短い足を伸ばしても土が掘れなくなり、動きが止まった。遠巻きにして眺めていた子供たちも、いよいよ卵を産むのかと期待して待った。どんな色のタマゴかなあ、どんなくらいの大きさかなあ、イクラくらいかなあ、と想像を巡らしていたが何も変化は起こらない。カメは止まったままだ。すでに一時間ほどが経過している。あきらめて、みんなでひと遊びすることにした。
 再び、カメの産卵に興味が強い子数人とボクが辛抱強く観察を続けていると、産んだ!白いものがポトリと穴の中に落ちた。大きさは親指の先くらい。柄のない小ぶりのウズラの卵くらいだ。ボクの予想より大きかった。数分してもう一つ。そしてもう一つ。全部で三つ。ウミガメのようにたくさんは産まなかった。カメは休憩するようにしばらく動きを止めていたが、やがて後ろ足で土を戻し始めた。目で見ながらする作業ではない。適当に後ろ足を動かしているだけだ。草の上に蹴散らされたためか土の量が足らない。カメの視線の中に入らないようにして土を補充してやった。そのためかどうかは分からないが、カメはまた動きを止めてしまったので、みんなでその場を離れた。
 しばらくして行って見るとカメの姿はなかった。穴はきれいに埋め戻されていた。穴の脇には、母亀のお腹の跡が残っていた。穴掘り、産卵、穴埋めと、三時間ほどの間、ずっと腹ばいになって力仕事をしていたその腹の跡である。その尊い痕跡にそっと手のひらを当ててみた。おつかれさま、と。
 さて、カメの卵は孵化するまでに二、三ケ月かかるらしい。ということは、十月か十一月。場合によっては、冬眠を避けて翌春まで出ないこともあるらしい。十円玉くらいの小さなカメが出てくるのを是非、見たいものだ。今、その場所には印を立てて、子供たちがうっかり踏み荒らさないようにしてある。



文 責 ロッカク
詩と絵 チョン
2008年第13、14号を読む ポランの森からへ 2008年第17、18号を読む
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